こどものたまり場「かっちぇて」 手加減なしで本気の「誰でもきていい」を実現する自由な場所

公開日: 2017-03-28 ひとこと(人とことの)紹介

坂の多い街「長崎」の町並み

長崎市内。
街の中心部から少し離れた住宅街。
長崎らしい坂道の多い町並み。

その中に、
「けんちき」と「かおるこ」が
自宅で営んでいる場、
子どものたまり場「かっちぇて」がある。

玄関口。これとは別に庭にも入り口がある。


午後2時ごろ。学校が終わって、
そろそろ子どもたちが来はじめる時間。

数日前からここを訪れている
ぼくとさとしは、
けんちきと三人で部屋の真ん中のこたつに入って、
NPOのことや教育のことなど、
お互いの関心を話題に盛り上がっていた。

玄関がガタガタ鳴って、
子どもたちが入ってくる。

ほとんど毎日、子どもたちがやってくる。


※1けんちきに軽いあいさつをして、
後ろを走り抜けて庭に出ていく子どもたち。


ぼくらは話を続け、ますます盛り上がる。


今度は庭の入り口から入ってくる子どもたち。
部屋に入ってロフトへ登っていく。

「るすちゅうです」の看板をつけて、ロフトでゲーム。居留守か!?

気づくと近くに3歳児。
ぼくらにちょっかいを出して、
「◯◯しようー」と話しかける。


「今話してるからできませーん」


と断って、話を続ける3人。


3歳児のお兄ちゃんがやってきて、
ぼくにゲームをしようと誘ってくる。


※2一瞬、誘いに乗ろうかとゆらぐけれど、
今、自分がしたいことは何だろうかと自分に問う。
「せっかく盛り上がった話、
もう少しだけでも続くなら続けてみたい。」

そう思って、
「今ちょっと話してるから無理なんだわ。ごめん。」
と言って、また話を続ける。



豪快な水遊び

その間も玄関から庭から、
どこからともなく子どもが集まり、
庭では七輪で火をおこす男の子たち、
水たまりをつくって水路をつくる女の子たち、
ぼくらの周りを走りまわっている子や
カードゲームをしたり、
ロフトに集まってなにやらしていたり、
いきなりそのシーンからみたら
※3「とんでもない」ともいえる
メチャクチャな状態にも見えると思う。




気づくとさっきの3歳児やお兄ちゃんは、
別の大人と遊んでいた。


「さっきあの子たちに誘われた時迷ったんだよね。」
と僕。


※4 「必要なタイミングで
必要な人と遊ぶから、それでいいかも。」
とけんちき。

ここでは、大人も、子どもも、
参加者もスタッフも、ない。

「ただ一緒にいる」時間が流れていく。




これ以外にも縁側にたくさん靴がならんでいる。

※5「無料のたまり場」ということの意味は、
子どもたちもその親も、
ぼくたちのように訪れた人も、
ここに来るために、
「かっちぇて」に参加するために、
なんの条件もないということ。

※6だから誰にも何の役割もない。



ここにいる人は、
最後の一ミリまで自由に過ごすことができる。


もちろん、
その中にはぼくたち三人も当然入っていて、
話は尽きず、気が済むまで話をしていた。

七輪ファイヤーの男の子たちは、
ボウボウと立ち上る炎をあおいでいる。

※7「毎日勝手に火を焚いたりしてるけど、
この2年で一度も大きな火傷はなかった。
親に参加させれられた子どもがくるキャンプでは
毎年一回はケガやクレームがあったけど、
ここでは今のところそういうのがないんだよね。」

とけんちきは言う。

これは別の日。FBより。


大人だってそうだ。
自分がやりたくてやってることで、
仮に多少のケガをしたって、
それが問題になったりはしない。


文句を言いたくなるのは、大抵の場合
「させられてる」ときではなかったか。

こんな場所がよくできたな。
こんな場所がよくぞあったな。
ほんとにそう思う。


この場所は、
けんきちとかおるこの家というだけじゃない、
二人の人生とか、生き様と切り離せない、
唯一の、ここにしかない空間で、
そのことについてはこちらの記事で。
けんちき・かおるこ への手紙 二人の紹介に代えて


【最後に、寄付のご案内】
 かっちぇては、主に子どもを対象に、手加減なしに「誰でもきていい」場所を作るために、参加費を設けず、無料のたまり場として運営しています。家庭の環境などによっては、少額でも参加費があると来れない子どもが決まるので、「誰でも来ていい」が嘘になってしまうからです。
 ぼくも二人の活動を応援したいのですが、あいにく現在、たいした金額や物品を寄付できる余裕がなく、、、恥。この記事を書いているのも、自分なりの寄付の形だと思ってかいています。ページで活動の様子だけでもみてもらったらと思います。
かっちぇてへの寄付はこちらから。


※「けんちき」と「かおるこ」について
 けんちき(片山健太さん)と、かおるこ(片山薫子さん)は、長野にある山村留学などの自然体験教育をおこなう団体で出会った夫婦。「かっちぇて」で使っているお皿やコップは、そのときに作った手づくりの陶器や、通っていた子どもたちが手作りしてプレゼントしてくれた陶器ばかりで、見ていて飽きない。
 いわゆる何かを「指導する」とか、「教える」という教育ではなく、子どもたちが自分たちで、自分の主体性を発揮しながら自ら体験して学んでいく、というのが自然体験教育の基本的なスタンス。受け入れる大人やスタッフはなので、子どもたちが学ぶ環境を整えることが仕事になる。(「かっちぇて」では、このあたりのスタンスや、大人と子ども、という線引さえ、変容をとげていてそのあたりは上記記事や補足の中に。)
 自然豊かな場所で、(ぼくからしたら)本格的な教育の現場にいた二人。それでも、長野にいたままでは絶対にできないことがあって、それが、「誰でも来れる場」をつくることだった。自然体験や山村留学をするためには、それなりの金額を親が支払える余裕があったり、あるいは余裕がなくても支払う価値を「親が」感じている必要があった。
 子どもが自分で「行きたい」と思って行ける場所。そういう場所を作るために、二人が話し合って、考えて、いろんな人と会って、形になってきたものが今の「かっちぇて」。


※1 はじめてくる人との挨拶
  この前日、初めて「かっちぇて」で一日過ごして意外だったのは、「この人だれー?」とか、「どこからきたのー?」ということを聞かれなかったことだった。 
 一回だけ、聞かれたのだけれどそれは、庭で夕焼けを見ている時にぼくが「どっちが海かな?」と話しかけたときで、「(海の方向を知らないなんて変だな)どっからきたと?」とかわいい長崎弁で聞かれたときだった。(このシチュエーションなら大人でも聞くよね、というタイミングなのでノーカウント)  
 ここでの時間を過ごして、けんちきと話をしてゆっくり考えをまとめていったら、ここは「いつでも誰でもきていい」場所だから、初めてやってくる人がいるのは普通のことなんだとようやくわかった。
 長いこと「教育」の現場にいた中でいろんな場に訪れたけれど、大体の場合、子どもにそういうことを聞かれた経験から勝手な想像をして緊張していたのでした。
 そういう場所で過ごす場合、なんとなく会釈とか軽い挨拶くらいして、名前を呼ぶ必要がでたときに名前を覚える、というのが自然なようで、そういやぼくも小さい頃、仲良くなってから「ところできみ名前は何ていうの?」なんて、そんな感じの時があったなと思う。あ、今でもけっこうあるか。

※2 子どもと関わるときの判断の反転    
 これも過去の経験から来ている感覚なのだけど、いわゆる「子どもが集まる場」の中にいる「大人」というだけで、ほぼ自動的に「なにかしてあげなくていいかな」という意識が、はっきりとでなくても、しかしバックグラウンド動作をするアプリのように起動していた。
 だから、「大人だけで話す」というだけでも後ろめたさを感じていて、そこへ、実際に子どもからのお誘いがあり、それを断る、というのはちょっとした勇気が必要だった。
 さらにもっと細かいことを言えば、けんちきがどう出るのかというのも、不安とか恐さがややあって、それは過去に「自由にしていいよ」と言われた場所で、本当にじぶんがしたいと思ったことを本気でしたら、やんわりと否定されたり、勝手な判断をされたり、間違っていると言われたり、したことに由来しているような気がする。
 フタを開けてみれば、けんちきとかおるこの「自由」は、ぼくが心配するような狭いものではなく、おかげで、ぼくが今まで見てきた「子どもと一緒にいることについてのあたり前」はがらがらと崩れて、そのとき生じたいろんな気持ちの揺れをこうして見ることができている。
 「ただ一緒にいる」というフラットな関係の中では、役割や責任に乗っからずほんとに自分がどうしたいのかだけが突きつけられる。役割つきの関係に慣れた大人にとって、それはちょっと苦手だったりもするのだろうけれど、そこで起こることは本当におもしろい。

 ※3 大人から見てめちゃくちゃな子どもの遊び    
 子どもが「本気で」遊ぶなら、大人にとってめちゃくちゃだ、と思うくらいで自然なのだとおもう。役割を外していけば、(身体機能以外で)大人と子どもの違いというのは、世界の捉え方の違いに本質がある。その意味では、子どもの子どもたる由縁は、大人なら躊躇するようなことを平気でやってのけてしまうような性質ではないか。  
 大人しく、周りを気づかって行動することは、もっと大きくなってからでもたくさんできる。むしろ現代では、子どもをいかに思うとおりにするか、管理するかという流れが強すぎて、エネルギーが不完全燃焼したり、受け止め切られなかったりすることでなんらかの症状が後々にでているように思う。

 ※4 必要なときに必要なタイミングで    
 仮に、なんて話をしても仕方ないんだけれど、でも仮にぼくがちょっと無理してあのとき子どもと遊んでいたら、あとで一緒に遊んでいた大人には声をかけなかった、かもしれない。いちいち聞かないからわからないけれど、僕じゃない人のほうが純粋に子どもと関わるのがおもしろいとおもっているなら、ぼくはやっぱり、あのとき安易に子どものお誘いに乗らなくてよかったんじゃないか、なんてことを思う。
 *けんちきからちょっとだけ追加。
 こども達に「遊んでー」って言われた時、「今話しているのであそびません~」断った後に、 ボクがそうやってもいいんじゃないって話した意図の内容がもう一つあって   『こども達はこども達同士であそぶ時間から生きるために必要な学びを得ることが多いので、 この子と関係を作りたいときっかけにする時以外はボクはこども達と遊ぶことは基本ない』だから、誘われるあそびをいろんな理由で断わっております~。 僕らが断った後に、違う大人に行って、 その後こども達同士のあそびが始まって… という様子を横目で見ていました。    これはボクが居たい居方なのです。 そういう意味も込めていた時間でした。

 ※5 無料ということの意味    
 けんちきは、「お金をもらう人やタイミングをずらす」という言い方で、この場の成り立ちを表していた。来る人から直接お金を受け取るのではなく、応援してくれる人、立ち寄った人、そういう人のお金や物品の寄付として運営費用(その中から生活費を給料として捻出して)を受け取る。そうすることで、子どもとの関わりや、その場にいる大人のスタンスはがらりと変わる。
 それは端的に言って、「来てもらう人」から、「ただ一緒にいる人」への変容だ。そして、「ただ一緒にいる」ことでしか、起こらないことがある=見れない子どもたちの姿がある。  
  直接的には、貧困家庭の子ども(への対策)や恵まれない家庭環境の子どもにとって「一緒にいる」ことのできる場所があることはなによりの意味がある。(と言って思い出すのは 「さかなクン」のいじめについての記事 )
 けれど、「誰でも来ていい」とか、「どんな家庭の子どもでも」と二人が言い続けることの意味は、子どもにとって「貧困」や「家庭環境の良し悪し」なんて(本人の認識上)ないからだ、と思う。  
  子どもにとっては自分の育つ環境が全てだ。「ぼくの家は貧困だから行ってみよう」とか「うちの家庭環境が悪くて」なんて、自分で助けを求めに来る子どもがいるんだろうか。まあそういう人がいてもいいけれど、本当に子どもたちの方を向いて声をかけるときに「お家が貧しいと思う人も来ていいよ」とか「家族の仲が悪いと思う人来て下さい」なんて声をかけることはありえない。  
  実際に来ている子どもに、そういう事情を持っている人が多いとしてもそれは結果であって、でも、本気で子どもに「誰でも来ていい」と手加減なしに言うなら、「いつでも、なんにも持たずにきていいよ」という言葉にしかならないはず。50円でも100円でも参加費を設定した瞬間に、これない子どもが決定してしまうから。

 ※6 役割がない  
  現代の日本で、子どもと関わる時に何の役割も持たないでいることは、まずない。血縁であれば、親とか親戚とか何らかの位置づけがあるし、教育機関などではスタッフと明確に呼ばないにしろ、なんらかの指導や管理をする位置づけがもれなくついてくる。  
  ちなみに、それだけに、この前日、初めて「かっちぇて」に居たときは、妙な緊張を勝手にしていてどっと疲れた。こういうような場を他にしらないし体験したことがないからあたり前と言えばあたり前なんだけど、「子どもが集まる場」というだけで自動的に「何かしなくていいかな」とか「あれをしたほうがいいかもしれない」ということが浮かんで、自分がなにをしたいかについて見えにくくなる。
 僕自身だって、今じゃけっこう肩書や役割にとらわれずに行動する方だと思っていたけど、この日は見事に役割を探して、役割がないから居場所がないと不安になったりしていた。ま、そんなもんだよね。。

 ※7 安全とか危険との関わり  
  あまりの火の勢いの強さに「あれ怖くないの?」とけんちきに聞いたら、「いや、怖いよね―。流石にあれはときどき状況見てるよ。」とのこと。あ、怖いんだ(笑)。  
  「もう毎日火を焚いてる子も居て、なんどか、周りのものが燃えかけたときは、『ごめーん、家燃やしたくないからっ』て、止めたけどね。」と続けるけんちき。怖いといいつつ、ここではこれが日常の風景らしい。  
  子どもが「やりたくてやっている」他に、けんちきのように、どっしり、そこに居続けてくれる大人の存在があることはやっぱり大きい。大人だってハメを外すことがあるけれど、そういうときに最後の歯止めになるのは「あの人に迷惑かけられないな」という人の存在だと思う。
  役割やルールで安全や危険を「管理」するのは、そういう関係性がそもそもないとき、あるいはそういう関係に信頼を置いていないとき、の話なんではないだろうか。
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